Hospital in BALI

2004年5月26日
背骨の圧迫骨折を疑いハーネスごと降ろし、ハーネスごと車に乗せた(道なき道?なので救急車を呼ぶより4駆で病院へ行くしかない)。しかし、今度は体をハーネスが反り返って痛いので頭の方向から抜き取って貰いました。助手席でお行儀は悪いけどダッシュボードに足を乗せてました。イクの運転で最寄り(と言っても遠い)の病院へ・・・その間、イクは運転しながらも私の膝が揺れないように左手で押さえてくれて助かりました(^-^)。出産はした事は無いけ「ヒーヒーフー」の呼吸がいいかなって思ってやってみました・・・もしかして無意味?

着いた病院では設備が無い事が判明…腰を上げられないので短パンはハサミで切ってもらいました。自分が「切れっ!」と言っておきながら、お気に入りの短パンを切られてちょっと悲しい(そんな場合でないのは良く分かってるけどねぇ)…お尻に痛み止めを注射…この病院が日本語のわかるドクター(Dr.ハリー)に連絡しました。今度は救急車で搬送…言葉が通じないのは怖いですよぉ…ストレッチャーに移す時も少々強引…私が壊れるかと思った…(;^_^A。

移動がまた時間が掛かった。距離があるんだと思ってたら渋滞のせい…その間、私は自分の腰が揺れないように押さえ、看護婦や校長に膝を固定してもらいました。その間、私の独り言は「ファイト!ガンバ!大丈夫!お〜っ」…校長の耳には届いてなかったそうです(^^ゞバリの看護婦にはうわ言のように聞こえたかもね。


プリマ・メディカ病院に到着すると日本語の分かるドクターが待機してました。海外旅行保険の加入を聞かれた後にレントゲン(ドクターがいない時、レントゲンの台まで移動できるかと言われたが思い切り、NO!!そんな事したら下半身不随になっちゃうと思っちゃった(^^;)とCT検査後病室へ…マットの上に合板を載せたベッドに寝かせられてやっと一安心。安静になると痛みから解放された。

ナースで日本語が分かる人は男性1人だけ…あとはもう一人は「痛いand下痢only」だそうです。英語は半数以上は話せる人なんですが私が良く分からないときたもんだ!!あ〜っ、分かんないよぉ!!!校長が英語が分かるのが救い。Dr.ハリーはサポートドクター(と言うのか知りません)なので色んな病院、現場に行くので病院常駐ではないです。看護婦がどこまで理解してるのか分からない(T_T)看護婦に体を捻られて悲鳴を連発中に校長が一時帰国…「あ〜〜〜っ、唯一の通訳&心の拠り所が〜〜〜」なんて泣き言を言ってる場合じゃないです。

さて、どうするか(-"-;)
私はつたない英語力と日本語のみ・・・看護婦達はインドネシア語と英語のみ・・・結論♪「私がインドネシア語を覚える( ̄^ ̄)!!(英語を覚えると言わないところが私ですね)」と言う訳で校長のいない朝からまずは挨拶から〜〜〜(^.^)b
「スラマッパギ〜♪」「スラマッシアン」「スラマッソレ」「スラマッマラム」「スラマッティドゥール」
っていうかガイドブックのインドネシア会話しかないっちゅうの!!
でも、ウケたようで看護婦たちも日本語に興味を示し、そして私にインドネシア語を教えてくれました。校長がバリに戻ってきた頃には分からないながらも仲良ししてましたo(^0^o)♪はて、名前合ってるかなぁ…

ご飯を運ぶスチー 看護士、イカディック エリー メイ・アニー
ライナ 校長お気に入り、プトゥ ラディ ラディとアリニ
アユ マリアとウィウィ ナースステーションにて アノムとアルティニ
主治医のDr.デュサック 癒し系スタッフ? 元気に勉強に励む患者

2004年6月6日
別れが惜しいと思いつつも念願の日本帰国の日になりました。最終日は意味無く、看護婦たちが入れ替わり立ち代り、部屋を覗いて雑談してます。深夜の搬送には飛行機のストレッチャーに横になるまで、Dr.ハリーが付き添って手続きを済ませていきます。もちろん日本のお医者様と看護婦も一緒ですよ(^.^)bだから、安心!
飛行機で8時間。夜食喰って、しっかり寝て、朝食もしっかり食べました。どうも私はデリケートな精神は持ってないようですネ。

Dr.ハリーと日本から来た医療スタッフの二宮先生と曽山看護婦さん&Dr.デュサック(病院の主治医)。
皆さんにとってもお世話になりました。有難うございました。
空港に見送りに来てくれた
イクと奥さん!
メチャ、ラブラブよ♪
8月にはbabyが生まれる☆
校長の専属タクシーとして
頑張ってくれた英語の
話せるマーディカ
あっちこっち走り回って
グ〜ルグル!!

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